用水路による農業の発展
錦町の美味しいお米は、昼夜の寒暖の差が大きいという地理的特性と古代、湖であったことが所以となる良質な土壌、そして日本三大急流の一つ、球磨川とその支流を水源とする豊かな水によって作られています。
人吉球磨には宝永2年(1705年)に完成した幸野溝、宝永7年(1710年)に完成した百太郎溝をはじめとした複数のかんがい用用水路が張り巡らされており、それが農業基盤(インフラ)となり、米を始めとした多彩な作物が生産されています。これらの用水路は、平成28年(2016年)、「幸野溝・百太郎溝水路群」として国際かんがい排水委員会の世界かんがい施設遺産に登録されました。また、百太郎溝については藩の援助も、特別な指導者もおらず、農民だけで掘りぬかれた用水路であると言われています。鎌倉時代から掘り始めて100年の歳月をかけて作られたと言われている用水路。先人達の努力が現在の農業を支えています。
その後、昭和28年(1953年)に始まった市房ダム建設に伴い、大規模な県営の球磨川南部土地改良事業が昭和33年(1958年)から昭和42年(1967年)に行われました。この事業の一環として、百太郎溝と幸野溝は本格的に改修され、漏水がひどい土水路からコンクリート張りの近代的水路に生まれ変わりました。
この事業により、新幸野溝(あさぎり町岡原から錦町の永野地区までの用水路)が新設され、地区の一部移管と農地転用により、畑地帯であった地域が美しい水田となりました。また、田畑輪換により、葉タバコ、メロン、イチゴが栽培され、下流地区では水不足の影響もあり飼料作物、永年作物の落葉果樹(栗、梨、桃)が栽培されるようになりました。フルーツの里錦町はこのようにして発展を遂げています。
また、球磨川南部土地改良事業から40年経過後、漏水が目立つようになったため、平成9年(1997年)から平成16年(2004年)にかけて県営かんがい排水事業(UR関連)により大改修が行われています。
100年続く錦町のフルーツ物語
錦町の果樹栽培が本格的に始まったのが、明治45年頃。梨の栽培を始めた丸小野園が最初とされています。
熊本県梨の発祥地八代郡吉野村(現:氷川町)の吉野梨(明治38年)を始め、球磨梨(明治39年)、荒尾梨(明治41年)、不知火梨(明治41年)と県内各地へ広まりました。人吉球磨では当時熊本農業学校助教論であった山田勝馬氏が藍田七地(人吉市)にある元相良家薬草園跡地である御薬園に山田農園を開園。その御薬園において3年間の研修を経て開園したのが、丸小野園の丸小野松吉氏でした。
※吉野梨については、明治37年に山田勝馬氏の生家(兄熊三郎氏宅)の畑に仮植。同年、岡山県の六六園に修行に入る。翌年の明治38年に六六園より帰郷した際にさらに苗木を持参し、これらを元に熊三郎氏と一緒に梨園を開園する。
その後、大正2年に賀久農園が梨の栽培を始め、大正・大鶴地区を中心に次々と梨の栽培が広まりました。大正・大鶴地区は今とは違い、荒野となっており、この地に移り住まれた方々により開墾され、現在の豊かな農地になりました。丸小野園、賀久農園のように、山田勝馬氏の地元である八代地域より移住されてこられた方が多いようです。この頃、梨の苗木は八代地域より持ち込まれていたようで、錦町の梨は吉野梨と深い関わりがあります。その当時の品種は真輸、早生赤、晩三吉などを栽培されていたようです。晩三吉は今でもくらんど市に出荷されています。
戦前までに梨の栽培は広まり、全盛期は1軒の梨園で40-50人を雇用する程の規模になっていたようです。主な出荷先は鹿児島県の市場。当時は馬車をひいて持って行ったようです。その後、戦争が始まり、食料確保の為に梨からサツマイモへの転作を余儀なくされ、梨の出荷が無くなりました。賀久農園のように戦争により、梨の栽培を辞めた果樹園も少なくないようです。
戦後には梨の栽培を再開したり、新たに始める果樹園も出てきてました。高度経済成長期に実施された球磨川南部土地改良事業により、かんがい用用水路が改善された事が大きく影響しています。環境が整った事により、その後、栗、桃、ぶどう、メロン、スイカ、イチゴ、キウイフルーツなど様々なフルーツが栽培される事になり、錦町は「フルーツの里」と言われるまでになりました。
今では栽培技術の進化や、品種改良によりシーズンを通して様々な品種の梨が食べられるようになりました。近年では赤梨系ではあきづき、青梨系では秋麗・甘太などが人気です。
近年では人口減と若者の農業離れにより、果樹園の存続が危ぶまれているところもありますが、意欲的な若手の生産者もおり、錦町のフルーツ産業を支えています。山田勝馬氏が当時描いた果樹の未来は、今では120年を超え、現在もフルーツ物語は続いています。